共存
わたしはいま「諦め期」にいる
ブログを読んでくれる人ならわかるかもしれないけど、少し前から自分のことを知るために自分のことだけを考えて文字にするということを続けているけど、かなり時期によってコロコロと思想が変わっている
最初は自分の生きづらさに名前があることを知りそれをまとめる「追及期」があり、人生に正解なんてないことはわかっているけど、それでも自分と深く向き合って名前をつけていった訳だけど、結局新しい人と出会うときに「わたしはアロマンティック(デミロマンティック)でHSS型HSPでマルチポテンシャライトです!!」なんて自己紹介が使えたことはないし、ただ痛いだけというか、救いようのないというか、そんな感じになった
たまにわたしのブログを読んで自分もそうかもと思って調べてみて知ることができたと言ってくれる人がいるから、書いてよかったと思うし嬉しい
その後「悟り期」が来た
みんな違ってみんないいよね、認められようなんて思わないよ、でもわたしはあなたを認めるよ、といった気分
こんなに自分のことを考え詰めて抱きしめてあげれるような人他にいないだろ、、という自己愛と、それをみんなもすればいいのに、それだけが解決法だ、という考えの放棄
人と喋っていてもそんな無責任な余裕とか自信のようなものが溢れていた気がする
人からの悩み相談もよく受けてたし、いい言葉を返せてたかもしれないけど、なんかちょっと上から目線で話してしまっていたかもしれない
いま感じるのは「諦め」
あなたがわたしをわからないように、わたしもあなたをわかりようがない
寄り添うことさえも、無駄なのでは
わからないことを放棄せず向き合いたい気持ちは相手も同じくもっていないと機能しない
性格の欠如は理解し合えたとして、当たり前だとされている感情面においてはきっと一生わからない
とくに、恋愛感情のないわたしに恋愛体質の友達が多いのはどういう仕組みなんだろう、当たり障りがないから?
こういう文章を書くとき必ず「あなた」という存在を出してしまうけど、それは誰なんだろう、仮想敵であり自分であるんだろうけど、会ってしまったら全てが終わる気がする
これからもどうか都合のいい場所にいてほしい、いつでも撫でれていつでも殴れる場所に